​「昼と夜」(個展「昼に住む人は夜を夢見て 夜に住む人は昼を懐かしむ」にて配布 2017)

部屋の中に私以外の人の時間がなくなってしまって、また私は、どこにいるのかが分からなくなってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこに何も秩序がないということへの

リアリティ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

純粋なものと複雑なものは、

共存することはできないのだろうか?

 

 

 

 

 

引力と斥力

電磁気力、

弱い力、

強い力、

重力

まだ、正体が分からないその力

 

目に見えない力に規定される人とそれを疑う人

気にもかけない人

 

なにかを思うことの力

一人の中だけで起こっている「現実」の力

 

 

 

 

 

 

 

この言葉たちをあなたに同行させて、

何度でも蘇らせてください。

言葉は、何度読まれ、何度声に出されても、

消費され尽くすことはありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昼に住む人は夜を夢見て

夜に住む人は昼を懐かしむ

 

 

 

 

 

 

今に押しつぶされそうな人

今にぽっかりと空白があいてしまった人

掌からさらさらと今が零れ落ちていく人へ

 

 

今は、未来や過去と同じように

いくらでも形や色を変えられる

迫力がありすぎて向き合うのが怖くなるけれど

 

今は、たくさんの層を抱えていて

どの今にだって、あなたを連れて行くことができる

 

 

 

 

 

 

朝の絵

私は大体3000グラムくらいだった。

少し後に朝を見た。

父に名づけられたとしたら朝の絵という名前だった。

その、もう覚えてもいない朝の光を思い出して

ここまで重ねてきた時間のすべてを慈しんだ。

私はそのとき最も古くて最も新しい私に出会えるのだ。

 

 

 

 

 

たくさん眠ることで新しい自分になれるときもあれば、そうではなく昔の亡霊に不意に出くわすこともある。

 

夢の中で出会った亡霊は昔の知人で、なんとなく別れ際が悪かった人だった。もうどこにも懐かしさがないくらいに変わってしまっていた人たち。

彼らは今も当然生きて知らない生活を送っているのだろう。

夢の中で感じた喪失感は私の記憶と繋がっていたけれど、夢の中以外ではその喪失感すらきっともう、体感できないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

私はいつも真新しいものに出会い、計画し、

知らなかった人と知り合い、未来のことを考える。

亡霊たちはそうではない世界を、私がいま見ていない世界の存在を、伝えに来たのだ。

 

 

 

 

 

 

言葉には個人の感情を伝えるようなはたらきと、個人とは関係なく言葉自体の曖昧さや響きだけでなにかを訴えてくるようなはたらき、どちらも備わっている。

あなたが言葉にひどく傷ついたとしても、それを救うのもまた言葉だ。

言葉自体のはたらきは、あなたを個人的な推測の罠から解放するかもしれない。

 

 

枝と枝の間から見るその三角形の青色の

誰とも共有できない、切り離されたかたち

そこだけがレンズを通したように

くっきりと今に焼きついている、この感じ

 

 

 

 

 

 

 

 

「周縁」は中心であること、コアであることよりも、ずっと意味が深くて、謎めいていて、新しい価値の発見に近づける気がする。慣れようとか、愛そうとか考える必要はない。美しいものにただ心を委ねることができないこと自体を、絵にしていけばいいのだと思う。別にどこにも、ホームは無いのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思えばこれは、ずっと前から書き続けてきた物語の新章のようなものだ。いつもどこかで、今いる場所が嫌だと思う。それがおそらく、私の物語の端緒であるのだ。

 

 

 

 

 

周縁にいることで見えるのは中心にいるときには見えないもの、例えば、寂しさ、遠くの眺め。

(遠くというのは、眺めることでしかアクセスできないもののこと。)

かえって周縁からの方が、中にいるときよりも中心の物事が見えることもある。

逆に言うと、物事をしっかりと見なければ、周縁に居続けることが辛くなってくるのかもしれない。

 

 

私は、木漏れ日がうつるその襖の模様を見ていた。装飾的な模様が入った和紙だった。移りゆく光。突然、それは映像のようだなと思って、しかし映像とは最初はこの世界の移りゆく光を再現するもの、そしていくらでも眺めていられるようにしたものだったのだ、はじめから私は移りゆく光の中にいたはずなのに、なぜか私は複写された光ばかりを見ていたのだな、

目の前の生々しい光の原型に触れながら思った。

 

 

 

 

 

 

 

カーテンの向こうに、蜘蛛の巣の張った洗濯ばさみが見える。もうこれから使われることのないもの。量販店で山のように売られているぴかぴかの生活のうち、どのくらいの割合のものがこうなってしまうのだろう。生活のための本当の必需品は便利なグッズでも、おしゃれなファブリックでもない。生活を諦めるとき、これまでどうやって自分が生活をしてきたのか、わからなくなる。裏を返せば、どんな小さな子どもでも、何も買えないくらい貧しくても、孤独でも、自分なりの生活を志す人であれば、周りのものを生き生きとさせることができるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

暗い室内にひとすじの陽の光が差し込む。

ほこりが光を受けて、舞っている。

現実とはこんなにもざらざらとしている。

細かな繊維は、何度でも舞い上がり降り積もる。

20年前に見た光景となにも変わらない。

70年前にほこりが積もったビンを描いた画家が見た光景とも、そんなに変わらないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

液晶の中には積もらないし舞わないもの。

 

液晶の中には、ざらざらしたものは無いのだろうか?

人が作り出したものならば、この暗い空間の中、きっと至るところに混乱の種が落ちているはず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いまはなぜか、はじめて親元を離れたときのような気持ちが戻ってきている。

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしのさびしさは私の問題であって、他の誰かのせいでも無いし、他の誰かが埋められるものでも無い。

このさびしさは深く底無しで、果ては見えなくて、多分ずっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生活を工夫しようという気持ちが、何よりも生きることを支えてくれる。

 

 

 

 

 

 

わたしはいないのではないだろうか? と思うレベルが、最も薄らいだレベルだとしたら、

わたしはひとりだ、と思うレベルは、わたしの濃度はちゃんとまだ保たれているレベルなのだろう。

 

わたしがひとりでいられるなら、きっとたくさんの他のひとりを受け入れられるだろう。

 

 

 

 

 

 

わたしはいないの?

いえ、あなたはいないのではないの。

あなたは、ひとりなの。

 

 

 

 

 

多様であることは前進することと信じられなくなってしまった人々が

つぎつぎと、自分の数十年間の優越感のために、そして

怒りのために柵を狭く狭くしている

 

それにしてもこの怒りは、べつに最近急に現れた訳でもなさそうだ。

 

長い歴史の中で手懐けたと思い込んでいただけだったのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

異なる二つ以上のものが接触、衝突して生まれる衝動的なもの。つきあげてこらえることができないもの。美しいもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

言葉が最初にあったかどうかは、私にはわからない。

けれども言葉は、最後まであるだろう。

ふにゃふにゃの字になっても、聞こえない掠れた声になっても、言葉はあるだろう。

 

 

近頃は、日に日に老いていくことを感じると言っていて、気もそぞろ。

表情が豊かになったね、と言うあなたは私にこれだけたくさん色を教えてくれたのだ。

若いうちに行きたいところとか、したいことがあったらしておきなさい、と言っている。

これからのための準備期間だから、これからがすごいんだ。

そのうちにその弱音も、ほんとうに弱い音になってしまって。

もっとはやく好きになっておけばよかった。

この筆跡を見て涙を流す日が来るのだろう。

もし、好きと言ってくれてなくても、遅かれ早かれ好きって

言ってた。

あの子のこれからはどうなるのかしら、大丈夫かしらと、そんなことばかり気にして。

うれしい。

 

そんなこと、と思うようなことでも、今すぐ教えてあげたいのに。

 

 

 

 

眠ってしまえば、目覚める頃には忘れてしまう、

あの眠る前の、強烈にひとりきりの空間、

眠りたいのに、そのドアが開かなくてどちらにも引き返せない、

生まれられないような、死ねないような、

そういう虚空。

 

 

 

 

 

 

 

夜は新しいのかな、それとも古いのかな

 

 

 

 

 

 

 

 

混沌は透明に

秩序は不透明に

そのスイートスポットの話

 

 

 

 

 

落ち葉を踏んでかき回す。

どこまで行っても落ち葉。

生きている木。

死んでいる葉。

死んだ葉をしなしなになるまで踏みつけて

それが新芽を生かすまで。

 

新しい芽は、死んでくちゃくちゃになった葉の中に

生まれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

桃色と橙色が混じったような、

桃も橙も決して育たない、

北の孤島の朝焼けの空

 

 

 

 

 

 

 

 

固いパウンドケーキのような、古い椅子のクッションのような、少し厚みのあるいろいろな色のグレーが混じったもの、それはマナティの死骸が堆積した海の上の大地だと、

夢の中で誰かに聞いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

私がいま見えている範囲の、

私がいま踏んでいる範囲の、

光がいま反射している角度の、

 

風がいま吹きつけているところで

立つ幼い樹々

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あと60年も経てば幼木は立派な木になって、良い香りのする家を作ることだってできるらしい。

あと60年も後の世界で、どんな家に住みたいだろう。

そんな先の時代に、誰と過ごしているだろう。

私はさっぱり想像ができないのに、この幼木にはもう、自分の行く先がわかっているらしい。

 

 

 

 

 

 

 

ぐちゃぐちゃと整列、それを繰り返していろんなものが維持されていく。都会の街並みも田舎の山も。

巨大なコミュニティも私の部屋の中も。

 

 

 

 

 

 

「私が70歳くらいになってもこの器はまだ使ってるかもね」と言ったときのあなたの逡巡に、もう私は気がついている。

 

70歳になるということがもし実現するとして、変わりすぎたその世界で、変わらないその器のように変わらずにともにいつづけるためには、そう遠くない瞬間に何かを捨てて何かを得ないといけないのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こういう、情けない朝がすきだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

森にも海にもある死と生が、この代わり映えのない部屋の中にもあればいいと思う。

森や海ほどの細密さも大らかさもないこの部屋は、生きていることをわかりにくくしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

ドローイングは連続し続けていくこと。

物質を超えて、完了を逃れて。

 

 

 

 

 

 

 

 

物も絵も、混沌(落葉) 物は整然、絵は混沌(落葉)

物は整然、絵も整然(湖)

 

 

 

 

 

この部屋に皆が集まるという。

部屋が喜んでいる。

自分は整頓上手だと思っていたけれど、あらためて見るといまの自分は混沌を極めていて、どこから手をつけたらいいのかわからなくなっていたのだ。

自分一人で作り出せる数多の混乱。

それを美しいとか興味深いだとかと体系づけていく、

そのきっかけは他人の介入だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後悔(だれものこころのなかに)

 

 

 

 

 

 

 

 

そこになにも秩序がないということへの

リアリティ

 

 

 

 

 

 

 

長持ちしそうな立派なものをもらった。

こういう類の、壊れなくて使い込むほど味が出るものは、

自分の方が先に壊れるんじゃないか、

自分の方が先にリセットして忘れるんじゃないか、という

痛みを私に与える。

 

 

 

 

 

私の中には混沌が渦巻いていて、混乱した考えの原型があちらこちらに散乱している。死は秩序立ってきたこれまでの歴史や、呼べば必ず返事を返すような恒常性を壊してバラバラにするのだとしたら、私の中では死がゆるやかに踊り続けているのかもしれない。その混乱をそのまま劇的な絵画にできればどんなにいいかと思う。だが私には混乱と同化する能力がない。

言葉を用いてそれらとなんとか交渉すること、部分に一瞬の秩序を見つけること、生へ転換すること、永遠を嘯くこと、それが私のやり方なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

だいたい、人の都合でつくり変えられたものと、

ずっとずっと昔から同じ身体、同じ細胞を受け継いできたものの違いは、じっと見つめていればわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

地道を歩いていく、

でこぼこの道を、草が生えたままの道を

 

 

 

 

 

 

 

あなたはいつからそこにいるの?

恐竜も武士も戦争も、あなたがそんなにながくここにいることを知らずに

通り抜けた

私はもうすぐ、あなたが見えなくなる

 

 

 

 

 

 

 

 

自然のままの在り方

 

生まれてくる光

 

生まれ変わった私

 

 

 

 

 

 

 

君が作ったこの料理は、私が2年前に作ったものと同じ味がした。君にもし子どもが生まれたら、きっとまた同じ味を作るだろう。

 

 

 

 

 

 

 

ブルーマザー

 

青き母

 

私はあなたに、私自身を投影していたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

死ぬということは、水が急に濁り時が淀むことだ。

でもこのシダの葉は、少しも水を濁らせなかった。

これが、死なないということだ。

 

 

 

 

 

 

夜と朝を繋ぐ

 

 

夜から朝へ、そのトンネルをくぐって

乾いた身体は捨てて、どこへいけばいい

 

 

始まりにも終わりにも見る風景

 

 

 

 

 

 

100メートル以上先は見えない。

海らしきものが空らしきものに覆われている。

海は…、巨大なからだの端をひらめかせているだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水と光だけで出来上がるこのほしに

はじめから心のいるべき場所はないの。

 

 

 

 

 

 

 

 

最近私は、誰かと一緒に住みたいという望みを諦めた。

最近私は、ひとりの生活を充実させたいと思い始めた。

欲望を下げず、ただ変えただけ。

こんなになんだってできるし、そのうえ素晴らしいことに、なにもしないことだってできる。

 

 

 

 

 

 

 

どんなにぜんぶがいやになっても、たった一瞬でも我を忘れるような心地よさに浸れたら、空を飛ぶように自由を感じられたら、すっかりいやなことも忘れてしまえることは、たぶん長所だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一生覚えているよ、と言うあなたの一生を、私のものと比べてみた。

永遠のように永く、あなたの一生は続いていくようだった。

 

 

 

 

 

樹々の光るひとつひとつの葉を見ていた。

 

その光は、どこにでもあるのにどこにも保存できないものだった。過ぎた光はどこへ行くのだろうか。特に深く考えていない瞬間に、生きることと死ぬことの光はあらわれる。

 

気がつけるのは、こういうぼんやりした昼下がりだけだ。