草々

 

 

 

 「前略 お元気ですか。最近はサークルでもなかなか顔を見ないですね。忙しいのかな。僕もあまりサークルには熱心ではないけれど、11月の学園祭では今年一番の写真を出品していたよ。ところで、もし興味があったらうちの大学に遊びに来ませんか? 教室は水曜日の午前中なら他の学生もあまりいません。一般大の子から見たらどんな風に見えるんだろう。来週から大学も開きます。また、よかったら。あ、明けましておめでとうございます。 草々」

 

 

 私は文章を書くことが好きだ。昔から、折に触れて私は手紙を書いた。それは相手と自分両方のためのものだった。

 

 対外的には「僕」や「俺」や「自分」という一人称を使って生きているけれど、本当は「私」でありたい。それぞれの一人称の、言葉の由来は知らないけれど、私という響きと字面には、より繊細で傷つきやすい存在が包み込まれている感じがする。自分がそういう存在であると言うと、自意識過剰な奴だと思われそうで怖いが、やっぱり私は私でありたい。

 

 

 私は絵を描いている。絵は、この世界で殆ど唯一の、自分が見たいと思う光景を作り出せる装置だと昔目上の絵描きの人に聞いて、描き続けている。けれどもそれを私は実感したことがない。実感がないまま絵を描き続けて早9年目になる。よくもまあ続けてこられたなと感心する。6年目くらいまでは何故実感できないのか、何故描けないのかを悶々と考えていたが、もう今では理由を考えることをしなくなった。もしも私の中に理想の絵があるのにそれを描けないとしても、理由も解決法もないだろう。もしも私の中にそもそも理想の絵がなかったとしても、何かしらの絵が描けることに変わりはないだろう。膨大な選択肢の中で、私が何かを選ぶとき、良いことや楽しいこと、欲しいもの、美しいと思うこと、それらの量を測る目盛りのついた定規を持っていた頃もあった。それは、持っていると思っているとある日急にどこにいったかわからなくなり、これまた悶々とその定規を探す日々を過ごしていたが、どこかで諦めがついたのか、この頃は丸腰で過ごしている。定規を探すより、投げやりな選択をした結果が物理的に積み重なっているのを眺める方が、いくらか安心すると思った。そうした理由で、私の部屋には膨大な、大小さまざまなキャンバスが積まれている。それらはまだ何も描かれていないものや、数回のストロークがあるもの、塗られているもの、非常に重厚に塗り込められているもの、さまざまな状態のもので、すべては私の手によって作られ、物理的にうずたかく積み上げられ、そして何も判断されずにそこにある。

 

 

 絵を描いていない人から、絵はよくわからない、見方がわからないと言われることがある。そんなの私だってわかっちゃいない。私とあなたは、同じものを見ている。絵は別に誰からの判断も望まずに、そこにある。それだけだ。

 

 

 

 「前略 そろそろ桜が咲き始めますね。大学は休みが長すぎるので、季節の感覚がなくなってきます。冬ごもりをしてみましたが、ずっと一人で家か誰もいない教室にいるのも、疲れてきたよ。もし、朝絵が行きたいと思う場所があったら、僕も一緒に連れて行ってくれませんか。行きたい場所すら自分で決められないなんて、不甲斐ないですが。何か、新しいことが起こることを期待しています。身体に気をつけて。 草々」

 

 

 

 

 朝絵は私の彼女だった人で、別れてしまったが、すごく普通の生活をしているすごく変わった人だった。何がどう、ということは解明できないまま、会わなくなってしまった。彼女には付き合う前も付き合っている最中も、そして失礼かと思ったが別れた後も、よく手紙を出したが、返事は一通も返ってこなかった。